派手な衣装と、にぎやかな演奏で人目を引くちんどん屋ですが、最初からこのスタイルだったわけではありません。江戸時代の終わり頃には、巧みな口上で芝居や商品の宣伝を生業とする人物が大阪の町に現れ、『東西屋』と呼ばれました。
東京でも、安政から明治の始めに人気のあった『紅かん(べにかん)』という大道芸人は、番傘を背負って腰に鉦と太鼓をくくりつけ、それを叩きながら三味線をひいたといいます。さらに、明治から大正にかけては、『広目屋(ひろめや)』の始めた、何十人もの人を連ねた楽隊広告が大流行しました。これらがみな、ちんどん屋の原型のひとつとみられています。
大規模になりすぎた楽隊広告が取り締まられ、衰退したのと入れ替わりに、小編成のちんどん屋が登場しました。最初は一人で、チンドン太鼓を叩き、口上主体の宣伝をしていましたが、昭和の初めにレコード歌謡が大流行したり、活動写真のトーキー化で職を失った楽士が流れ込んだ事で、大太鼓や管楽器も加わってより音楽的になり、現在イメージされるちんどん屋サウンドの土台が形作られてきました。
戦後、ちんどん屋は身近な「宣伝請負業」として隆盛を極め、1945年(昭和20年)〜1955年頃(昭和30年)には約2,500人のちんどん屋がいたといわれます。
その後、TVCM他広告手段の多様化、交通量の激増などのあおりでいったん減少しましたが、平成に入り、新しい世代の台頭によって業界全体が活発になり、新たな開業、入門者が年々増えてきています。
現在、巷に溢れ返る様々な宣伝広告の中で、ちんどん屋の持つ「人が直接コミュニケートする宣伝の魅力と効果」が改めて見直され、かつてはなかったようなバラエティに富んだ場面で利用されています。街宣伝のプロというだけでなく、人が見て楽しめるパフォーマーとしての一面も。この点が、新時代のちんどん屋の特徴と言えるでしょう。 まだまだ街からチンドン囃子は消えそうにありません。 |